昭和48年01月22日 筑水信徒会○少育成会
お話になっておりました、先生の言葉を借りると、教会に預けっぱなしにして、親が無関心であると言う事は無責任だと言う事ですね。これは確かにそうです。けれどもそれをもう一つ超えた所に教会と言う所には、それは特別なそれこそ神秘的な働きのあっておる場なんです教会は。ですから教会で起こって来る事。それは目の前では教会にやっとったから困った事になったという場合もあるですけれども。必ずそれはおかげの元になると言う事。だからその事を信じてからですね。
預けっぱなしというとちょっと、可笑しいですけどね。その教会に通うてさえおれば、預けてさえおれば安心だと言う、その安心のおかげの頂けれる所まで、信心をもう一つ進めると、もっと素晴らしい事になり。私はこれはいつも思うのですけれども。信者でも私好みに育てようとは、決して思いません。どこまでも神様好み。だから自分の考えを、私はこうだから、あんた達もこうしなければならないと言った様な事で、まぁ過去においては、そういう生き方だったんです。
けれども成程それは、私はこうしてこうおかげを頂いたんだから、こうすれば間違いないという様な言い方で、御用してきたんですけどもね。最近は、それじゃいけない事に気が付いた。それでこれは私好みではなくて、どこまでも神様好みにお育てを頂くんだと。ですから子供でも矢張りそうです。矢張りどういうその子供、これは子供だけで限った事ではないですけれども。
思いもかけない内容に、素晴らしいものを持っておるか分からんと、私がなまじっか指導したために、それを摘んでしまうような結果にすらなりかねないことがある事なんです。ですからこれはどこまでもね、矢張り神様にお育てを頂くと。ただもう本当に言うならば、お手伝いをね、実意を持ってさせて頂くと言うこと。ですから教会に預けておけば、絶対安心だと信じれれる。それは教会で例えばマルショウに出てから怪我をしたとか。または、困った事になったと言った様な場合であってもね。
それが必ずおかげの元になるんだと、確信を持ってから安心しておれれるというのは、これは無責任じゃない。それはもう一つ、その向うにある神様を信じきっての、いわゆる神様に本当のお育てを頂かせて頂かなければ、本当ではないと分かったところからですね、そういう実感として、いわば放任ではない、けれども放任と同じですね。いわゆる放任して神様にお預けするとか、お任せするという様な信心が出来たら、もっと素晴らしいお育てを頂くと私は信じております。